相対的に恵まれた立場における社会運動の難しさについて

この間,国立大学の置かれている苦境について専任の教員が主張をしようとした際に,非常勤講師を専業としている人から自分たちの方がもっと苦しい立場にあるんだ,という主張を目にしました。最近何度か目にしているのですが,相対的に見ればある程度恵まれた立場でありながら,なお何らかの生きづらさを抱えていて,社会問題として訴えたいことがある場合には,主張の持って行き方が難しいケースがあります。「私の方がもっとつらい」という反論にどう答えればいいのでしょうか。

たとえば,中野円佳さんは『「育休世代」のジレンマ~女性活用はなぜ失敗するのか?』光文社新書の中で,様々なケースをとりあげながら,育休をとることや職場に復帰することの難しさについて論じています。当事者にとってはもちろん重大な問題なのですが,他方で,たとえば結婚したくてもできない人にとっては出産や育休の話は恵まれた人たちの話として共感できないかもしれません。不妊治療に臨んでいる人,子供はいるけれども育児休暇制度がない立場で働いている人など,その問題に直面すらできない人の苦悩というものがあります。

あるいは,大学の無償化問題をとりあげてみましょう。低所得世帯(非課税世帯)に対象こそ限られますが,大学の学費が無償化される制度が2019年5月に成立しました。この話は望ましいことでしょうか。もちろん,生活のために進学を諦めざるを得なかった人が救われることは望ましいことです。他方で,そのための財源はどのような人々から集められているかと言えば,高卒や専門学校卒など,大学へ行かなかった人や行けなかった人からも集められている税金で賄われている,この事実も忘れてはいけない,たとえばこのような論じ方をすることもできます。もっと語気を強めるならば,たとえば大学の無償化に用いるよりも生活保護の予算を増やすべきではないか,このような比較論も可能でしょう。

例示している状況はそれぞれディテールこそ違いますが,要するに,より深刻そうな問題を比較対象にもってくることで,当該対象とする社会問題の重要性を小さくしようとするレトリックは無限に考えられます。「世界にはご飯食べたくても食べられない子供達が大勢いる」といった表現は定型句に近い表現として一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

このような問題はどのように検討すれば良いでしょうか。簡単に指針を示すことのできる問題ではありませんが,とっかかりを探すために展開を試みましょう。

前提として,個々人はたとえどんなに恵まれた立場であったとしても,自分が幸福になるための権利を有しているということがいえます。これはすべての人が平等に有している権利なのだから,自分が自分の住みやすい,生きやすい世の中を作ろうとして何がわるい,恵まれた立場に生まれたことに罪悪感を抱かせるような考え方ははねのけて,自分の幸せのために行動することは,何も悪いことではない。このような擁護は可能でしょう。

他方で,社会運動であれ,何らかのオピニオンを発信することであれ,一定の余裕がなければできないことであるのもまた事実です。本当に苦しい立場にある人は自分が苦しいであるとか,どのようにつらいとか,言うことができないぐらいには余裕を失ってしまっている。たとえば,ブラック企業に勤めて過労気味になっていると,考えにも体力にも余裕がなくなり,退職するとか,転職活動を考えることすらできなくなってしまうという問題があります。人がよりよく生きたいと思ったり,よりよく生きるために何かを改善したいと思えるためには,心身の健康や最低限の自尊心などいくつかの要件を満たす必要があります。

下手をすれば,世の中は自分の生きづらさを主張できるような余裕のある人だけが自らの環境を改善でき,そのような余裕のない人の生きづらさは改善されないままになってしまうかもしれません。

社会運動にとってもうひとつ重要なのは,他人の生きづらさに理解を示すことでしょう。#Kutooという社会運動があります。僕は男性なのでパンプスを履くことは今度もないと思いますが,足にけがをするほどのドレスコードを要求する社会通念は変えた方が良いと思っています。

自分が直面することはないだろう生きづらさに対して理解をひろげようとすることは,自分の直面する生きづらさを誰かに理解してもらうために最低限必要な作法であると考えます。そうでなければ,みんなが自分のことだけを主張する社会になってしまいます。独特のキャラクターで人気の宇垣美里アナウンサーは「私には私の地獄がある」と自分の生きづらさを表現しました。たとえ想像が追いつかなくても,他人には他人なりの生きづらさがあるだろうということを承知することはできると思うのです。

以上をおおざっぱにまとめると,次の2点に要約できます。社会運動にとって重要なのは,

①自分が自分の生きづらさを主張すること
②自分が直面することのない他人の痛みに対して理解を示すこと

社会運動にとって重要なこのふたつが,互いにコンフリクトを起こさないケースは比較的簡単で,潜在的にであれコンフリクトする場合に難しさが生じるだろうといえるでしょう。同じような議論に思えるかもしれませんが,もう一周お付き合いください。

例えば他人がパンプスを履くかどうかというような問題は,パンプス関連業界でもないかぎりは自分自身の生きづらさや利害に直面しないことなので,つらければやめたらいいよね,と僕にとっては比較的簡単に同意を示すことができる問題です。おもに,ルールや規範の変更に関する問題はこの部類です。選択的夫婦別姓の問題などもそうだとおもいます。こういうときに,例えば「私はパンプスを履く仕事もない」というような不平不満があったとしても,それはそれでつらいことではあるにせよ,社会運動自体は邪魔されるまでには至らないでしょう。別の問題だ,と反論すればすむからです。

最終的な目的が税金や国家予算の使い方の変更に絡む社会問題はもっとコンフリクトを生みやすいです。限られたお金を,保育所に使うか,不妊治療の補助に使うか,婚活の補助に使うか,少子化問題に限ったとしてもいろいろな選択がありえて,それぞれに自己主張のしようがある。国家の立場ならば何かを政策目標を決めて,どの施策が効果的かエビデンスを集めればいいのかもしれませんが,個々人が自分の生きづらさを主張する際にはもっと整理されていないし,整理されていないところに他者から別の論点の方が重要だと横やりをいれられてしまうとなおさら混乱してしまいます。これが今回考えたいポイントでした。

この場合も,どのくらい社会の予算が限られているとみんなが考えるのかによって,コンフリクトの衝突度合いが変わってきます。小さな財布の中では我も我もとなってしまいますし,ある程度余裕のある財布の中では,そうだよね,その問題も大切だよね,という分かち合いになるのでしょう。積極財政・緊縮財政など,財政のあり方についての考え方はいろいろありますが,いずれにせよ今後生産年齢人口は減っていくし,自ずと使えるお金は減るはずで,生きづらさの正面衝突は増えていくのでしょう。

直接にコンフリクトを生まなそうな他人の問題に対しては,他者の痛みを理解する・想像できるようになることが,やがて自分の問題を主張する時にも役立つことでしょう。ただし,それも余裕があってはじめてできることです。今を生きるのに必死な状態の時には,他人の問題を理解することは難しいです。だから,たぶん今の世の中だと,自分の問題を主張すると,私も別の問題で苦しい,そういう声が出てくることは避けられないのだと思います。

これが「私は別の問題で苦しい」とだけ解釈・理解できるようになればまだいいのですが,「おまえの苦しみはたいしたことない,私の方が苦しい」といわれてしまうと困ってしまいます。

このように言われたら,前段と後段を2つに分割しましょうというのが私の暫定的な答えになります。大前提に戻りますが,社会運動とは「たいしたことがないように思えるかもしれない苦しみを,いや実際結構大変ですよねこれ」と理解してもらうための活動であると表現することもできます。だから,「たいした問題ではない」という反論には,当然受け止めて再反論すべきです。

同時に,人には人の地獄があります。だから,「私は苦しい」と表現する人の周りには,特に「私も別の問題で苦しい」というリアクションは当然やってくるはずで,それに対しては最低限の理解を示すことが,自分の運動にとっても重要なことでしょう。他者の理解が重要,他者の理解をするためには最低限の余裕が必要,社会運動を行うにも最低限の余裕が必要,そういった仕組みを理解した上で,自分の問題にとりくみ,自分の幸福を希求するとよいのではないかと思います。

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