就職活動の思い出

6月に入り,4年生に就職活動のことを聞くのがなんとなく聞きづらい季節になってきた。彼らから相談があるならもちろん僕は聞くのだが,僕からわざわざ進捗を尋ねても答えたくないこともあるだろうし,ただただ幸運を祈りたい。

大学教員の就職活動は,学部学生の参考には全くならないだろうが,いくつか思い出深いエピソードがあるので紹介したい。

大学教員の採用は,だいたい1次審査が書類(論文)の審査で,2次審査は大学に呼ばれての面接,口頭での審査になる。僕が東北学院の面接(2次審査)に呼ばれたのは確か7月中旬の時期だったかと思う。当時の学部長は菅山真次先生で,所定の時間の少し前に学部長室に到着し,少し雑談をしてから,面接会場へと移動して,そこで模擬講義を披露するという流れだった。

学部長室では,共通の知人の話をしたりしていたのだが,面接会場へと移動するときに,いくつかの話を菅山先生からしていただいた。個人研究費がだいたいいくらであるとか,研究環境としてどのような状況であるか,本学では若手を積極採用していて,研究をしてもらってより良い大学に移籍してもらうことも歓迎する,そういう内容を立て続けに,ぽんぽんぽん,と話していただいた。

ああ,世に言うエレベータートークというのはこれか,というのを人生で初体験したのがその瞬間だった。実際にはエレベーターではなく,本館の学部長室から大学院棟へ向かう階段の上り下りの最中だったのだが,要するに,限られた時間の中で,二人きりの瞬間を使って,僕は菅山先生からトップ営業を受けたのである。

僕にとって,菅山先生というのはむちゃくちゃ高名な先生で,一橋の院生の間では,「『「就社」社会の誕生』はすげえよ」「あんな丹念な研究ができるなんて」と噂になっていたぐらいなので,僕は正直,東北学院大学という大学のことはよく知らなかったのだけど,募集要項にある「学部長 菅山真次」のことの方がよく知っていた。ああ,あの菅山先生のいる大学かあ,ぐらいの感覚で東北学院に応募し,学部長室で「(おーほんものの菅山先生だあ)」ぐらいの感覚で対面し,少し雑談をして打ち解けた早々のタイミングにこのような会話になったのである。

正直,言われた研究費の額が多いのか少ないのかその時はよくわからなかったし,「より良い大学に移籍してもらうことも歓迎する」という言葉が如何に重いかということを,若すぎた僕はさっぱり理解していなかった(教員採用業務は非常に大変なので,簡単に移籍なんかされたら大学としてはたまったものではないのである)。

鈍い僕にもわかったことは,大した業績のない若造である僕に,高名な先生が,事前に練って用意してきたであろう言葉をかけてくれている。その事実だった。学部生の就職活動に喩えるならば,面接を受けに行ったらいきなり社長が出てきて最大限の言葉をかけてくれ,その言葉が社長の熟慮の行き届いた言葉だったとでも言えばいいのだろうか。

正直就職活動というのは結構嫌な経験もするので,そんなお声がけをいただくのは初めてのことで,僕は感動してしまって,東北学院大学にぜひ行きたい,という思いを決めた瞬間だった。

幸いにして面接はなんとか及第点をいただき,面接の日の夜に菅山先生からお電話で「採用審査委員会として経営学部教授会に推薦することを決めました」というご連絡をいただいた。内々定の手前ぐらいの審査段階に進んだのである(この段階では普通は電話をしない。菅山先生独自の判断だった)。

当時の僕は研究業績が乏しく,都合3年目の就職活動にさしかかっていた。ポスドクの任期が年度末できれるので,何が何でも次の職を探さないといけない状況で,20大学以上応募していた中で,ようやくいただいた吉報だった。

しかも東北である。僕は幼い頃に福島県に住んでいたことがあって,できれば東北に行きたかったという個人的な事情もあって,非常に嬉しかった。このことについては以前別の記事で書いた。

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その後,実は幸運が続いた。

「至急,電話をもらえませんか」

自分の師匠(ゼミの先生)からただそれだけ書かれたメールが来た。一体何事だろうと思って,メールにはそれ以上何も書いていなかったので,正直僕は何かミスをやらかしたかなと焦って,慌てて電話をかけると,別の吉報だった。都内の某大学から,僕の師匠の元に「もしうちの大学に来てくれるのであれば,面接に呼びたいと思うがどうか」という内々の問い合わせがあったのである。東北学院大学の面接の,たった2日後のことであった。

僕は,東北学院に行きたい,ということをその電話口で師匠に伝えた。あまりこの電話のことを僕はよく覚えていないのだが,師匠からは,都内の方が良いのではないか,ぐらいの確認はあったかもしれない。ただ正直20大学以上も出願していたので,そのお声がけいただいた都内の大学が,どんな条件のどんな公募だったかもすぐには思い出せなかったし,何よりも2日前の菅山先生の印象が強すぎて,僕としてはもう心に決めたことだったのである。

後々まで師匠からは「あのときの尾田は気持ちの良い意思決定をした」と事あるごとに述懐された。師匠としては,偏差値も相当上で,都内の大学の方が条件がよく,それでも先に声がかかった方を優先するのは義理堅い奴だ,ぐらいの感覚があったのかもしれない。僕は要するに,舞い上がっていて何も考えていなかっただけなのだが・・・。

都内の大学には師匠から辞退の連絡をしてもらったつもりだったのだが,何かの行き違いで,別の先生からも直接お電話もいただいた。地方の大学を選ぶという僕の意思決定は正直先方には理解不能だっただろうし,不快にさせてしまったと思う。

その後も菅山先生には採用プロセスが一段階進む毎に電話をいただき,よくしていただいた。業績が少ないにもかかわらず,准教授として採用していただくことになった。僕としても,他は全て辞退しましたので必ず行きます,というメールを送った。東北学院に決まる前に任期付きの職の内定が1つ,その後さらに面接の話がもう1件ぐらいあったのでそれらに断りの連絡を入れ,残りの20数件にも同様の連絡をいれた。

その後,東北学院に就職してから,採用人事をする側の機会を何度か経験した。面接まで来ていただいて落とすのはつらいし,内定を出した後に辞退されるのもつらい。出願するのも大変だが,大量の論文を読んで審査するのも非常に気を遣うプロセスであることをようやく知った。当時はあまりよくわかっていなかったが,後から振り返ってみると,僕は「内定辞退することはありません」というメールを送っておいてよかったなと思う。菅山先生のご厚情に対して,業績に乏しい僕ができる唯一示せる誠意はそれぐらいしかなかったからだ。

望んで望まれるというのは幸せなことだと思う。そのひとつの幸せの背後には様々な不義理がある。就職活動は初対面の人間同士のコミュニケーションなので,うまく意図が伝わらなかったり,予想外の受け止め方をされたりする。反省をして,それでもまたうまくいかなかったりする。立場が変わることで,あのときの言葉にはこういう重さがあったのかということをようやく知ることがある。これらが社会科学的に成熟していくプロセスであるといえよう。徐々に読みが正確になったり,理解が深まっていくことで,過去の自分の若さに苦笑することもある。マーケットで揉まれるということはとても痛い経験だが,同時にこの上ない成長の機会でもある。諦めたくなる季節だと思うが,4年生はどうか就職活動を頑張って続けて欲しい。

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