私立大学を蝕む「ポイント制」と、頭を使わなくなる大学教員

ある大学のシラバスを書いていたら、以前は求められていなかったはずの事前事後の学習に関する記載が増えていることに気づきました(現職の東北学院大学では数年前から実施済み)。正直「またか・・・」という思いなのですが、最近の私立大学は、文科省の定めたポイントを稼ぐための改革が蔓延しています。

正確な名前は私立大学等改革総合支援事業というのですが、私立大学の教員であれば、この調査票と配点の一覧を見てみることをおすすめします。最近の大学で生じている制度変更が、概ね本事業のポイントを稼ぐための措置であることがわかります。

例えば、シラバスへの事前事後の学習についての記載を求められているのは、この事業の調査票に下記のような項目があるからです。

⑦ 学生に講義等のための事前事後学修(資料の下調べ、学生同士のディスカッション、専門家等へのヒアリング等)を促す授業を開講していますか。

1 当該年度開講科目のうち80%以上 4点
2 当該年度開講科目のうち50%以上 2点
3 上記のいずれにも該当しない。 0点

要 件 等: 事前事後学修に関して、平成 30 年度に使用するシラバス等において学生に対し具体的に明示(単に「テキストの予習」等ではなく「○○についてレポートにまとめること」等)していること。シラバス等で明示していないものは該当しない。

こういう項目が無数に列挙されており、ポイントの高い大学には補助金が与えられる、そういう仕組みになっている事業なのです。

私立大学の教員を5年やってみて思うのは、このポイント制が私立大学の経営者と教員から考える力を奪い続ける効果がすごいということです。私立大学では「ポイントのため」「補助金のため」という理由で様々な改革が実施されることになります。外部資金のことを言われると教員は弱いです。全学向けの補助金に相当するような金額を1人で稼いでくることは難しいので、「僕が代わりに稼いできますからこんな制度変更はやめましょうよ」とは中々言えないわけです。

従って、「ポイントのため」と言われた改革は、よくよく熟慮されるわけでもなく、ある程度は形式的に、有無を言わさず採用されることになります。本来、何らかの施策を大学が採用するときには、これをいれるとどういうメリットがあるか、追加的に発生する労力に見合うか、どのような副作用に注意すべきか、教授会やその他の会議で議論がなされてから採用されます。ところが、「ポイントのため」「補助金のため」という旗が掲げられると、このプロセスが省略されます。このような改革項目が総合支援事業タイプ1の「教育の質的変換」だけで28項目あり、総合支援事業はタイプ1~5まであります。この理屈が繰り返し採用されると、現場には、自分たちではどうにもならないことがあるのだという学習性無力感が残ります。

職業的研究者でもある大学教員の強みは、ひとつのことについて長期にわたって考え続けることにあります。すぐにベストパフォーマンスを出すことができなくとも、毎年考えて改良を続けていけばそれなりの成果をいつか達成することでしょう。ところが、ポイントのために導入された施策は、誰もその責任をとりません。自分とは違う理屈で採用され、その帰結について考えることは放棄しがちです。大学教員から、大学教育について考えることを放棄させることの副作用は大きいのではないかと感じます。

個別の内容についてみると、たとえばシラバスに事前事後の学習についての記述が加わるのは結構なことではないかと思われる方もいるかもしれません。この問題については、①個別の問題と、②大学教育から多様性を失わせて一律の採用を迫ることの問題の2種類の反論を指摘しておくことにしましょう。

まず、個別の反論としては、実際のところ、シラバスはそもそも学生が読んでくれるかどうかが大きな問題です。限られた字数の中にピンポイントに授業についての必要な情報を納め、とりわけ履修選択前の学生に出す情報と、履修を決定した学生に出す情報を分け、適切なタイミングでの情報提供をはかることが重要です。ところが、全教員が事前事後の学習について15回の授業についてそれぞれ記入した場合、シラバスの分量が大幅に増え(しかもよく考えずにポイントのために書いた文章で埋められ)、シラバス自体が読み飛ばされる可能性が高くなります。

なお、シラバスが本来どういう目的のものであり、日本に導入された際にどのように変質されるにいたったかについては、佐藤郁哉(2019/11)『大学改革の迷走』が詳しく論じています。

より深刻なのは、大学教育から多様性を奪うことのもたらす様々な作用です。たとえば、シラバスの記述が十分でない教員が大学の中に混ざっていたとしましょう。従来であればそれはそれで履修選択にあたり学生にとっては1つの情報だったのです。シラバスが丁寧でない教員はもしかしたら授業も丁寧でないかもしれないし、その逆の、計画倒れの綺麗なシラバスだけ書くタイプの教員もいるかもしれない。「学生のためだけに書かれたシラバス」であれば、それは学生にとって何らかの推論を促し、履修選択経験を蓄積させる情報だったわけです。ところが、一律のルールで縛り、シラバス校正委員にチェックさせて標準化された、「文科省に提出するためのシラバス」は履修選択にあたり情報的価値が失われます。

多様性の問題は授業間のポートフォリオ設計でも生じます。シラバスは学生と教員の間の契約書のようなものなので、たとえそれがポイントのためであれシラバスに書いた内容は授業内容を拘束します(中には無視する教員もいるかもしれませんが、大分度胸がいる行為です)。事前事後の学習が全ての授業で実質化されていくと、授業によって労力の加減をつけることが難しくなり、カリキュラム運用上の問題も生じます。たとえば、大学としては教員の労力のかかっている少人数授業について学生にもなるべくがんばってもらい、大人数の講義はまあ耳学問でとりあえず毎回授業にでてきて90分話を聴いていてくれれば良い、といったことを運用実態として思っていたとしましょう。全ての授業で事前事後の学習をきっちりシラバスに書いてしまった場合は、これまで許されてきた授業間の役割分担や労力を加減するといった運用は許されなくなっていくでしょう。

このように、1つの施策を導入する際にはいろいろな波及効果を読んでおく必要があるし、それぞれの大学が個別に意思決定するのであれば、全国で多様な決定がなされ、市場の選択に任せることもできるのです。ところが補助金のために一律で採用された施策の責任は誰もとりません。文科省は「各大学が自発的に改革した(補助金を狙うか狙わないかの選択は各大学に委ねられている)」とするでしょうし、大学の経営者も大学の教員も自分の責任ではなく「ポイントのためにやったこと」だとするでしょう。

これでも私立大学は、文科省に予算の大部分を握られている国立大学に比べればマシなのかもしれませんが、大学教員から大学の在り方について考えることを放棄させ、責任感を失わせるようなこの補助事業は弊害が大きく、我々はせめてどのようなシステムの中に自分たちが置かれているのかよく理解しておく必要があると考えます。

タイトルとURLをコピーしました