講談社現代新書が、「研究者のための現代新書新人賞」という企画を実施している。一般書の出版経験のない研究者を対象とした、新書企画(冒頭4000字と章構成)を投稿し、最優秀賞だと新書が出版できるという企画だ。
おもしろそうな企画だと思ったので、応募してみることにした。せっかく4000字書いたので、ここにその内容を公開する(細部の最終調整中のためまだ投稿していないが)。講談社の中の人には公開しても差し支えない旨許可をとっている。
どうしたらいいとか、こういう事例もいいとおもうとか、いろいろあるとおもうので、TwitterやFacebookでご感想お待ちしております。
『はた迷惑なイノベーション』はじめに
『はた迷惑なイノベーション』という題名は,意味がよくわからないかもしれない。イノベーション(新規性の高い製品やサービスのことだと思ってもらえばよい)が普及することは結構なことだと思われがちである。本書では,イノベーションには良いことばかりではなく、一般の人にとって迷惑な場合もあるということ、イノベーションのもたらす負の波及効果にスポットをあてる。
例えば、近年は一般の民家への宿泊を促進させるインターネット上での民泊マッチングサイトという新規ビジネスが登場している。民泊の登場当初、民泊への宿泊者はゴミの出し方が汚いとか、夜中まで騒いでいるといった問題点や懸念点が提起された。一見して、民泊は近隣住民にとって迷惑な存在である。
もちろん、民泊が普及すれば観光客の増大に繋がり、将来的には地域社会を豊かにしてくれる可能性が高い。しかし、イノベーションの登場当初は、メリットよりも、混乱や懸念といったデメリットが先行することがある。実際の果実は後からやってくるのである。
そのため,本書では,その迷惑との付き合い方を本書で考えたいと筆者は思っている。一見すると迷惑な現象が、実はイノベーションの萌芽的段階であることがあり、つきあい方次第で将来的に社会を便利にすることがある。我々の直感や先入観を見直すことで、よりよい社会を作っていく手がかりとすることができる。そのようなイノベーションに伴う様々な迷惑について検討するのが本書である。
先ほどの民泊の例で言えば、近隣住民が被る迷惑のうち、実際に解決が難しい問題は限られている。ゴミの出し方はゴミ箱に多国語で案内文を書くことで大幅に改善されるし、パーティー用途で使える物件とそうでない物件は、宿泊する物件を選ぶ時に情報として明示され、多くの物件では夜中に騒がないことの同意が事前にとられている。地域住民から問題が提起されれば、企業家にとってそれは事業の存続にかかわることなので、企業家は解決策を考え事業内容を修正することができる。取引の当事者だけで解決が難しい場合は、政府により規制が形成されることもある。このようにして、イノベーションと社会は折り合いの付け方を学んでいく。
いわば、イノベーションというのは自分たちの街に突然越してきた隣人のようなものである。最初はとっつきづらいし、何を考えているのかわからない。土地の慣習も知らない。しかし、その隣人は内心、地域になじもうと必死でもある。ここで社会の側がどういうコミュニケーションをとるのかによって、イノベーションがその土地になじめるのか、あるいは再度引っ越しして出て行ってしまうかが決まる、そのような性質がある。民泊は2020年2月現在,正念場を迎えている。日本でも民泊は無事合法化されたものの、旅館業の反対に遭い、営業日数規制が厳しい状況にある。東京オリンピックが民泊普及の契機となるかどうか、イノベーションに対する社会の捉え方が動くタイミングであるといえる。
そういうわけで、本書の趣旨は、イノベーションを推進する主体、いわゆる企業家たちが、いかに苦労して新規の事業を立ち上げたか、そのような苦労話や成功物語を語ることではない。イノベーションを享受した消費者たちの生活が、いかに便利になり幸福になったかということを扱うわけでもない。むしろ、本書の主役は第三者たる一般に生活する人々である。普通に生きている我々が、イノベーションという新規で不確実な現象といかに付き合っていくべきかということを考えたい。
日本社会にとってのイノベーションと分断
この問題は、特に高齢化が進む日本社会にとって対応が難しく、また重要であると筆者は考えている。誰しも年をとると新しいことを覚えるのが大変になる。携帯電話ショップではスマートフォンの操作に慣れない人達がいつも長蛇の列を作っている。これまで慣れ親しんだ慣習や規範が変わることはものさびしい。最近の人たちはクールビズでネクタイをしなくなっているが、自分はどうにもネクタイをしないと落ち着かないという気分の人も多いだろう。イノベーションに合わせていくことは、人々にさまざまな負担を強いる。とはいえ、いつまでも古い社会に合わせ続けることもできない。労働者人口が減っていく中、生産性向上は急務である。スーパーのレジがセルフレジになれば、否応なくセルフレジの使い方を覚えざるをえない。
人口減少下で、若者から高齢者まで多様さと異質さを増していく社会の中での合意形成はとても難しい。筆者の以前勤めていた大学では「○○についての通知(の紙)をポストに入れました」という内容のメールが届くことがあった。社内システムがあっても紙の通知しか見ないアナログな先生と、逆にポストにほとんど足を運ばないデジタルな先生が1つの職場に混在し、時折重要な事項については妙なメールが飛ぶのである。両者はとても異質だがそれでも我々は協働しなければいけない。他方で、大学教員として筆者が若い学生達と向き合っていると、LINEなどのチャットアプリが全盛である。自分自身も共同研究者とはSlackというビジネス用のチャットアプリで、時候の挨拶抜きに、四六時中思いつきや進捗状況をやりとりしている。このような時代に、学生達にわざわざメールのマナーを教育する自分は時代錯誤な人間である気がしてくる。自分の名前をわざわざ書かなければいけないのはEメールという古いシステムの欠陥であって、なぜマナーとして教えなければならないのかという気分になる。それでも、片や紙と印鑑の文化があり、片やLINEとスタンプの文化がある。イノベーションが生む断絶は、深くなるばかりであろう。
筆者は、皆が積極的に新技術や新サービスを導入しようと呼びかけたいわけではない。そのような小手先の説得でどうこうなる問題ではない。新しい何かがでてきたときに、社会が分断され混乱することは仕方ないことだと思っている。その上で、新規なる何かに対して、直感的に受けてしまう不快さや、迷惑に感じる自分の気持ちとの付き合い方、変化に向き合うことの辛さ、意思決定に向き合う人間の弱さを本書では考えたいと思っている。イノベーションを採用しないまでも、それらの感情と反省的に向き合うことが、他者の自由の理解に繋がり、より包摂的な社会へと繋がっていくだろう。
本書の構成について
本書の構成を述べておこう。第1章では、イノベーションの定義について解説する。イノベーションとは新規性が高く、そしてそれゆえに本質的に不確実な営みであること。事前に儲かるかどうかわからない中に企業家たちはわざわざ飛び込んでいくこと。そのリスクは企業家だけでなく、消費者や社会も負っていることを紹介する。
第2章ではイノベーションが第三者に与える影響、これを専門用語で「外部性」というが、これまでのイノベーション・マネジメント論でどのような外部性が検討されてきたのかを振り返る。研究者たちはこれまでどちらかというとイノベーションが社会にもたらす景気のいい話、「正の外部性」に主に着目してきたことを紹介する。
第3章では、イノベーションのコストやリスクといった負担について、企業家と消費者、社会のそれぞれがどのような負担を負っているかについてもう少し詳細に検討する。
一般的にリスクを負うのは企業家であり、あるいは国家の仕事であると捉えられてきた。本書が重要視するのは、たとえば普及するかどうかわからない商品をわざわざ採用する先駆的な消費者である。彼らがお金を払って「欲しい」を表明するからこそ、企業家も「行ける」という確信を深め、イノベーションを先に進むことができるという側面がある。同様に、先駆的な地域社会や都市が、不確実なイノベーションを受け入れてみるという試行があって、はじめて実績を積むことができ、企業家は別の土地にイノベーションを売り込んでいくことが容易になる。多様で異質な消費者や生活者がいて、その中にリスクを負う人達がいるからこそ、イノベーションは徐々にその形を明確にすることができる。
第4章では、迷惑の極地として、「萌芽期のイノベーション」と「犯罪」は近しい性質を帯びている場合があることを紹介する。ようするに既存の社会から逸脱した行動や突出した行動に対して、社会がポジティブに評価した場合には事後的に「これはイノベーションである」と我々は定義し、社会がネガティブに評価した場合は事後的に「これは犯罪である」というラベルを我々は後から貼っている、このように考えるのである。このような分析視角は、社会学でラベリング論とか社会的構成論と呼ばれている。
イノベーションの進むプロセスは、手のひらを返されることの連続だ。中でも、一見犯罪として認識されている現象を、社会への問題提起として解釈しなおすことは、創造的でとても魅力的なことだと筆者は考えている。
たとえば、iTunesやSpotifyのような音楽配信サービスが実現する前には、Napsterというファイル共有サービスによる音楽データの無料交換という事件があった。Napsterの失敗を見て、後続サービスは著作権上の問題の修正を図り、徐々にイノベーションは進展していく。
あるいは日本の個人情報保護に関する議論を推進させてきたのは、「Suicaの乗降者データ外部販売問題」「リクルートキャリアによる内定辞退率販売問題」といった象徴的事件である。これらも萌芽的段階でイノベーションが失敗したのであり、しかし具体的な事業提案があったからこそ我々の社会の学習が進んだのだと解釈できる。
第5章では、近年重要視されるようになったイノベーションの立地論を紹介する。各国や各都市は豊かになるためにイノベーションを呼び込もうと競争している。性格的な寛容さや規制当局の対応の柔軟性はイノベーションを引きつける。イノベーションを迷惑と思わない土地は強い。
第6章では、第5章の立地論を受けて、高齢化の進む日本社会が、どのようにイノベーションと向き合っていくべきかについて改めて論じる。日本は弱りつつあるのかもしれない。その弱さとどのように向き合うべきだろうか。
目次(簡略版)
第1章 イノベーションとは
第2章 イノベーションが社会に与える外部性
第3章 社会が負うコストとリスク
第4章 迷惑から学習する
第5章 イノベーションの呼び込み競争
第6章 日本はイノベーションとどう向き合うべきか
書き切れなかった雑感
一般向けなので、いろいろ小咄があるといいかなーと思って、この4000字とは別に、イノベーションへの反発に関する歴史的な事例を集めはじめているのだけれども、その作業がなかなかおもしろい。
生命保険の誕生期には、人の命を貨幣換算するなんて冒涜だとか、あるいは早すぎる死について語ることは縁起の悪いことだと思われていて、そういった文化的な抵抗感が営業活動の妨げになったらしい。幼児用のハーネス(安全用のひも)の話なんかも僕は好んで授業で話すのだが、「ペットみたい」という外野の意見をどう抑え込むのかというのがおもしろいポイントだ。これらのケースは迷惑というよりは心理的な抵抗感というべきなのかもしれないが、イノベーションが社会に当初与える負担であることには代わりはない。
イノベーション研究者は新しいモノのことが好きな人が多いので、どちらかというとこういう、なんというか変化が嫌いな人達のことを見落としがちになる。ビジネスとしても最後まで採用してくれない人達は結局お客さんではないわけだから、いつまでも考えていても仕方がない。でもそういう人達も一緒の社会で生きている。そういう問題について考えてみたいと思うのだ。