なぜ書籍には事前の査読制度も事後の評価制度もないのだろう

連休前から,そこそこ評価されている本だとか,非常に高名な先生の本に,残された貢献できる余地を見つける・・・というかまあ有り体に言ってけちを付ける作業をしていて,「自分の読み方が悪いのか」「いやどう読んでもこれは本の方がおかしいだろう」という作業を繰り返していて精神衛生によくない。

特に,辛い評価を書く見本例が公開されていないのも厳しい。論文であれば「査読コメントの書き方」のテンプレにあたるはずの部分が世の中のどこかに転がっていてもいいはずなのだけど,他の分野には結構きついコメントを飛ばし合っている分野もあるのに,経営学は割と率直なコメントを残すことを敬遠する傾向があるようだ。

書籍の査読について何かないかと思って検索していたら,いつの審議会かわからないのだが,次のようなコメントがあった。

(「書籍」の特性)

  • 日本を代表する経済学者である森嶋通夫は、かつて、研究成果の発表について、「私は研究成果を雑誌論文ではなく単行本のかたちで公開するのを常としています。―現在の専門雑誌は細かい技巧を重視しすぎており、重要な発想は無視されがちである。技術的な論文なら、どんな些細なものでも、採用される機会がより大きいことは確かである」と述べており、学術誌の査読に対して批判的であった。
  • 「書籍」の刊行には「査読」というシステムがない。原則、出版社の編集者が大体のレピュテーションを聞いていて、この人はなかなかよい研究者ではないか、という勘だけで動いている。「評価」というよりも、曖昧な「評判」に基づいて出版がなされているといった状況である。
  • 「書籍」の場合、欧米のユニバーシティ・プレスが刊行するような場合には、非常に厳しい「査読」が存在する。これに対して著名な出版社であっても、大学との直接的な関係がないような出版社では、厳格な「査読」がなされているようなことはないと聞く。「書籍」の「査読」はよほど出版社がしっかりしていないと難しいのではないか。

「人文学及び社会科学の振興に関する委員会」における主な意見(案)-「社会科学」関係-

つまり,現行の制度下においては,「論文の査読制度で鍛えられた著者の中で本を書く才能も持っていた人が,たまたま偶然本を書く機会が得られて本を書いた」とか,「本を書いてみたら意外とそのプロセスで自分を自分で鍛えることができて書けた」とか,良い本の誕生はそんな偶然に支配されているということになる。

無論,近年は例えば有斐閣とかは高宮賞(組織学会賞)を連発しているので,事前のセレクションが上手く効いているとか,編集者が上手く伴走しているケースもあるのだろうけど,それにしても全体を通してシステマティックかといわれると厳しいところがある。

今読んでいる本は,なんというか,著者がラフに書いたら一般受けしたのだけれども研究者的には評価できないというようなタイプで,これは無名の自分なんかがブログできつい評価を書こうとすると,返って敵をあちこちに作ってしまって自分の評価を下げかねない・・・いやでも誰かが書かないとまずいでしょう・・というような逡巡をしてしまう。公共財の過少供給というやつだ。

やり方としては,自分のレピュテーションを高めてから殴るという方法ぐらいしか思いつかないのだけど,こういうのってどうすればいいんでしょうね。匿名で書く?いや自分の名前で書かないと労力に見合わないし・・・。

査読誌に既存研究欄で批判的に書くという手もあるのだけど,短すぎて,他人の批判をしながら自分の貢献も出すというのが字数制限の中でできるかどうかわからないのだけど,結局やってみるしか仕方ないのかなあ。

なお,僕の知る限りでは,学術出版社の企画から刊行にいたるまでのプロセスについては,佐藤郁哉他(2011)『本を生みだす力』新曜社が詳しい。

また,インターネットにおける書評の在り方としては酒井泰斗さん(ルーマン・フォーラム)を参考にしている。僕は全然実践できてないけれども・・・

2019/05/02追記:その後ちょっと学術書の出版について勉強した。

学術書の出版について学ぶための参考文献
前回のエントリを書いてから,何冊か読んで,学術書の出版について勉強したので備忘録代わりにブックリストを残しておきます。 佐藤郁哉・芳賀学・山田真茂留(2011)『本を生みだす力』新曜社。 ハーベスト社・新曜社・有斐閣・東京大学出...
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