組織学会年次大会に参加して,久しぶりにいろいろな人とお話しすることができた。最後のセッションでは伊丹先生が経営学者の未来を語り,加護野先生がコーポレート・ガバナンス論を通じて企業経営の未来を語るというセッションだった。お二人の報告に共通項は特にないだろうと予期していたのだけど,ディスカッションでは両者が共通の言葉で繋がれたセッションだった。
投資家はポートフォリオを組んで分散投資をすることができるが,従業員は分散投資をすることができず1つの組織に否応なくコミットせざるを得ない存在であるというのは一般によく知られた話だと思う。自分の身を振り返ってみると研究者もまた,自分の研究に否応なくコミットせざるを得ない存在である。良い研究ができて,優れた研究者に成ることができればよいが,能力の問題もあれば,勘やセンス,リサーチサイトとの巡り合わせのような不確実な要因もある。博打の側面は常につきまとう。自分一人だけでは充分なポートフォリオを組むことはできない。
「勝ち方」はみんなの気になるところで,どうすれば優れたセンスを身につけ,どうすれば目に見える表層から本質を選り分けることができるのか,それは皆の関心事なんだと思う。同時に,競争には「負け方」もあるということをここ数年来,特に職の安定を得てからおもうようになった。不公平かもしれないが,職を得た研究者というのは研究に失敗しても職を追われて消えてなくなるわけではない。研究が研究者コミュニティで行われる様々な「納得の多数決」のプロセスであるのだとすれば,多数を納得させられる人もいれば,多数を納得させられない結果に至る人もいる。それは本人の問題であると共に,運不運の問題でもある。
我々1人1人は充分なポートフォリオを組むことはできないが,それでも学会の中の誰かは良い研究を成し遂げてくれるのではないかという信頼をすることはできるのではないか。自分がだめでもきっと誰かは成し遂げてくれると信じることができるからこそ,自分も全力で博打を打つことができ,真摯に研究対象に向き合うことができる。ポートフォリオになることはできないが,マクロに見れば自分はポートフォリオの中の1つのサイコロであると想うことはできる。そのポートフォリオは学会と呼ばれることもあれば,研究者コミュニティと表現されることも,あるいは単にマーケットと呼ばれることもある。投資家ほどの自由ではないが,それほど無責任でもなく,普通の企業の従業員ほど束縛されることもない。そういう自由とコミュニティが学術研究者にはある。
皆が勝ちを求めてがんばることが大事であるとともに,リスクをとってちゃんと討ち死にすることがポートフォリオを健全なものにする。負け試合をあがくことは能力蓄積の観点から欠かせないことだが,ゲーム自体を歪めるようなあがき方をすることはよくないのだと思う。「制度がゆがんでしまう責任は個々のプレイヤーにはない」という考え方に僕は与しない。それが許されるとすればせいぜい職を得るまでの間で,職を得た後の研究者にとって重要なのは,なるべく多くの人が研究をやめずに自分のできる挑戦をする環境を整えることと,一人一人が全力でサイコロを振ることだ。持てる力で戦って,身を投げ出して,負けてもまた身を投げ出して挑むことだ。
ジュニア・ファカルティぐらいの年代の活性化ということが初日の二次会で話題になり,その席で某君が研究をしない先輩のことを批判していた。その批判は正論であると僕も思うけれど,重要なのはサイコロを持っていて振らない人間に喧嘩を売ることではなく,一人でも多くサイコロを振るように仕向けることなのだと思う。喧嘩を売る権利というのは確かにある。が,それは職を得ていない状態で研究に身を投じている大学院生や身分の不安定なポスドクに与えられた神聖なもので,ジュニア・ファカルティは世俗にまみれながら徐々にゲームが変わる時期なのだろうと感じている。10人のコミュニティでも2000人のコミュニティでも,自分のできる範囲で気持ち良く研究できるように環境を整えること,きっと誰かが良い成果を出すと信頼すること,それがいつか自分の研究だったら良いなと思いながらサイコロを振ること,負けたら負けたでまた振ること,そういうサイクルを回していくことが未来を作っていくことなのだろう。