書評:富永京子(2019)『みんなの「わがまま」入門』左右社

みんなの「わがまま」入門』は,社会運動をあえて「わがまま」と表現し,中高生を主たる読者として想定するという2点において異色の社会運動入門書である。著者の富永さんから出版記念パーティーにお招きいただいているのだけど,ちゃんと感想を書いていなかったのでまとめておきたい。中高生向けの本の感想ではあるのだが,以下の文章は容赦無しに大人向けの(もっと言えば同業者向けの)論評であることをお断りしておきたい。

「わがまま」という表現は適切だろうか

この本が啓蒙書として成功しているかどうかは,社会運動と日常語であるわがままがどの程度接点をもっていて,このアナロジーが説得的であるかどうかに依存するだろう。たとえば「わがままボディ」を「社会運動ボディ」と言い換えたら意味が通らなくなってしまうように,「社会運動」と「わがまま」とは常に入れ替え可能な言葉ではない。両者の共通点がどのくらいあるか,それを説得的に書けるかが著者の力量の見せ所となる。

辞書をひいてみると,わがままとは「①他人のことを考えず,自分の都合だけを考えて行動する・こと(さま)。身勝手。自分勝手。 」とある。社会運動に寄せられる批判の代表的なものは,まさに,社会運動というのは自己中心的で自分勝手な行動なのではないかというところなのだろう。そこをあえて,わがままという表現を引き受けた上で,いや,「わがまま(社会運動の第一歩)」をしていいのだ,「わがまま」の表現方法にはこういうやり方があるのだ,という説明を試みているのが本書である。

本書のまえがきでは「「わがまま」を「自分あるいは他の人がよりよく生きるために,その場の制度やそこにいる人の認識を変えていく行動」と定義します。(p.13)」と,社会運動と入れ替え可能な表現としていきなり定義してしまっているが,日常語としてのわがままが持っている要素をいくつか拾う作業をしてみると,本書の挑戦と,啓蒙書としての貢献が明らかになるのではないかと思う。

本書では社会運動に寄せられる多数の批判に答えているが,以下では特に”わがまま”という日常表現に特に密接に関連すると思われる3点,①社会運動は,自己中心的なふるまい(自己中)なのではないか,②社会運動は,自己満足的な行動(自己満)なのではないか,③社会運動は,他人を傷つける行動なのではないか,という3つの観点から社会運動について本書がどう論じているかを紹介したい。

社会運動は自己中か?

第1章では,「わがまま」をいうのは自己中心的ではないかという疑問に対して,正面から向き合っている[1]本書では章ではなく「1時間目」と表記されているが,簡略のため章で表記する。。本書の白眉たるはこの第1章の筆致にあるので,ぜひ本文を読んでいただきたいが,簡単に紹介しておく。

「わがまま」が自己中心的であると考えるのは,みんなが平等でみんな一緒の環境や境遇であるという価値観に根ざしているのだと著者は解説する。みんな一緒なのにあの人だけわがままだ,ではなく,そのみんなとはそもそも多様な人々の集合なのだ。これは近年の社会運動にとって望ましいような困ったようなポイントである。社会運動が成功するのは,これはみんなの問題だとみんなが納得するからこそである。個人化の進んだ時代では,そもそもそのようなみんなの問題と考えられる前提となる同じ境遇がなくなってしまっている。自己表現をしやすい時代であると考えれば良いような気もするし,他方で,他者の境遇に対する共感を喚起するためには意図的にいろいろな努力をしてみる必要がある時代であるともいえるだろう。本書では章末のエクササイズとして,共感を喚起するいろいろな工夫が紹介されている。

社会運動は自己満か?

もうひとつ,社会運動に寄せられる大きな批判として,そのような活動をしても,結局社会は変わらないではないか,社会運動にやる意味はあるのか,自己満足にすぎないのではないかという疑問がある。

この論点について,著者は第2章のp.90以下で三通りぐらいの答え方をしている。第1に,自分たちで全ての変化を生じさせなくとも,要望を公のものとして社会を変えるきっかけをつくれればよいのだとする考え方がある。第2に,抜本的な社会変化が生じなくても自分や自分の周囲に変化が生じればそれも成果なのだとする考え方である。第3に,長期的に見ると社会は結構変わっているので,効果を長い目で見守ることも重要だという考え方である。

この部分は,第1章の筆致と比べるとやや未整理な部分があって,論じる順序やワーディングにまだ工夫の余地があったのではないかと思える。例えば,2点目の「自己満足でも良い」と論をpp.96-98で振って,その後で「長期的な視野で成果を見ると良い」(pp.103-108)ともう一度自己満足では納得しきれない人向けの論を登場させるところは,内容に問題ないもののやや読み取りづらい。自己変容も成果だという話は最後に回した方がすんなり読める構成になっただろう。

また,p.95の「あとは政治家や企業にバトンタッチしても,全然良いのです。」というところででてくる「バトンタッチ」という比喩もややミスリーディングであると僕は思う。社会的に大きな変容を生じさせるためには通常多数の試行回数が必要で,ミクロレベルでの個々の運動が失敗に終わることは,それ自体決して「何も意味がない」などと評価されるわけではない。試してみないことにはわからないし,試した結果が他の人を動かすことがある。例えばもう少しフォーマルな政治参加活動である選挙を考えてみよう。選挙の投票の結果として生じる死票(当選しなかった人の票)が全くもって無意味かと問われればそんなことはないということは比較的理解しやすいのではないか。人々は死票を覚悟していても投票するし,死票の数は選挙後の政治や次の選挙の参考になるのである。以上のように,社会の変容というのは,多数の試行の上に成り立っているプロセスであることを強調した方がよいように思われた(少なくともリレーのバトンタッチのような円滑なプロセスではないはずだ)。

社会運動は他人を傷つけるか?

「自己中」や「自己満」に比べると,この論点は本書に明示的に書かれているわけではないのだが,一般的な社会運動家とは異なる著者独特の視点と偏りが入っているポイントなので指摘しておきたい。一般に社会運動のアクティビストや研究者は他人を傷つける表現をすることに対して躊躇しない傾向にあるが,著者の富永さんは珍しく,自分の発言で誰かが傷つくことを非常に恐れる人だ。この立場について明示的に書いてあるのはあとがきの部分だけだが,様々な記事でも直接そのように発言しているので公知の情報として用いても構わないだろう[2]中高生の国語の読解は問題文に記載された文章中の情報に限定される傾向があるが,大学での読解は使える情報は何でも使う。。例えば,以下の記事ではそのような著者の立場が,上野氏のそれとは対照的に現れている。

富永:(略)私は人を傷つけたくないんです。反響みたいなものに対して、「誰かが傷ついちゃったんだ」と思ってしまう。
上野:だって、傷ついている人が傷つけられた相手に反撃するんだから、相手には傷ついてもらいたい。(略)
富永:(略)私は自分が傷ついていることに相当鈍感なのかも。

嫌なことをイヤと感じられなくなる…傷つくことに鈍感な優等生たち【富永京子×上野千鶴子】|ウートピ

このコンテクストを理解しておくと,第3章と第4章の実践編で,著者が社会運動の第一歩を中高生に勧めながらも,同時に無用なトラブルが生じないように筆者が細心の注意を払っていることが理解できる。この点については,効果的な社会運動の実践法を求めるような読者にとっては物足りない部分もあるかもしれないが,子どもに読ませようとする保護者からすると安心できると評価できるだろう。また,中高生でもできて,なおかつ他害的でない手法が非常に多彩でいろいろと掲載されていて,楽しめるつくりになっていると思う。

この立場が現れている例をひとつ挙げると,pp.131-133では,社会運動をしている人々が,時として強い言葉を使わざるを得ない状況であることに対して筆者は「何故他者が強い言葉を使うのか」その背景理解を披露している。ところが,もし本書が社会運動のテクニック本であればその後に当然登場するはずの「私はある局面で強い言葉を使うべきか,使わざるべきか」という問いについては著者は言及しないのである。このあたりが本書の評価の分かれどころで,社会運動本として実践的でないと評価するか,いや中高生向けの「わがまま」入門として適切だろうと評価するかが分かれる部分だろう,と僕は思う。

売れ行きは知らないのだが,率直に言って本書は良い企画だと思う。僕の専門である経営学の表現をすると本書の企画は「内部資源と外部環境がフィットしている」という定型句があてはまるだろう。現在の富永さんが書けるであろう内容と,中高生をターゲット・セグメントとするという着眼点が合致しているという点でこの本は良い企画になっている。例えば,現在の富永さんに『プロ市民向けの効果的な社会運動の実践法』のような本を書かせようとしても,本書ほどは上手くは書けないだろうと予想されるのである。

啓蒙書の範囲を超える話になるが,富永さんのTwitter等を拝見していると,別に強い言葉を使わなくても影響力を行使することはできるという部分もあると思うので,もう一歩,そのあたりの炎上ではない影響力の行使・実践が社会運動研究として抽象化されて整理されてくると,日本を代表する社会運動研究者となるのではないかと思わされる。

まとめ

わがままというアナロジーを用いることの成否を検討するために,わがままの構成要素として①自己中,②自己満,③他害的という3つの観点を検討し,本書を紹介してきた。僕としては①が素晴らしく,②はやや改善余地こそあるものの内容に問題はなく,③は読み手によって評価が別れると予想されるもののメインターゲットである中高生向けには良い,と考える。社会運動をあえて「わがまま」と表現する本書の試みは成功したのではないだろうか。

もちろん,本書の論点は以上の3点に限られるわけではない。2章の「自己責任」論とか,5章で登場する「おせっかい」とか,読者の感想が楽しみな論点は他にもあるので,実際に手に取ってみることを期待する。

なお,3つの論点について独立に扱ってきたが,これらの論点の相互関係を検討することもできる。例えば,他害しないという著者の立場を受け入れると,著者は社会運動が自己満足でもいいと考えているかどうかについて,ある程度の推論が立てられるように思われる。この点についてさらに興味があるようであれば,著者の研究書である『社会運動のサブカルチャー化』や『社会運動と若者』を読んでみるとよいと思う。単に結果を追い求めるだけではない社会運動の他の側面を理解することができるだろう。

References

References
1 本書では章ではなく「1時間目」と表記されているが,簡略のため章で表記する。
2 中高生の国語の読解は問題文に記載された文章中の情報に限定される傾向があるが,大学での読解は使える情報は何でも使う。
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