6年目を迎えた被災地の調査

東北学院大学経営学部では「おもてなしの経営学」という観光関連の実務家を招聘する授業があり,その関連で2泊3日かけて各地の被災地における観光産業の現状調査に行ってきた。主な発見は以下の3点にまとめられる。

第1に,自分の研究関心に近いところでいうと,観光のニーズと供給のミスマッチがあちこちで起こっているような印象を受けた。少人数の旅行に対して16畳もあるような大部屋がメインのホテルでは対応が難しいし,では修学旅行を受け入れるには地元の観光コンテンツがキャパシティ的に対応できなかったりする。こういうミスマッチの解消の選択肢には民泊のような新規参入業者の価値もあるのだろうけれど,既存の観光業界との協力で成立してきた観光行政が,ローカルな人間関係に波風をたてるようなことをわざわざやるとは思えない。民間と行政の立場の違いや考え方の違いから,なかなか踏み込めないこのあたりの問題にどのように貢献していけるかというのは,私のようなよそ者のやるべきことだろう。

第2に斎藤善之先生という商業史の先生の既存調査先にいくつか随行して,in-depth interviewとかthick description, local knowledgeとはこういうものかという地域の深みを体験させていただいたのも良い経験だった。先生にはほとんど後進への教育的配慮としか言いようがない調査プランを組んでいただいて,この感謝は言葉に言い尽くせるものではない。

第3に,今回は被災地の語り部ツアーなどにも参加し,震災そのものに直接向き合う機会ともなった。これもおそらく僕は独りだったら参加することはなかっただろう。高々5年前の人の死を,観光のついでにツアーに参加して消費するという行為にそもそも抵抗感が強く,よそ者はよそ者のできる貢献をすれば良いだろうというスタンスで,僕はなるべく”普通に”生活して行くことを身上としている。被災を経験された同僚の先生方と一緒でなければ,触れる資格のない被災地の痛みに,接することができた。

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そんな僕でも,これまでの人生でたとえば会津にいったら白虎隊の最期の場所を観光したりしてきている。数年前の死をコンテンツとすることへの抵抗感が強いが,でもその歴史を風化して消してしまっては,将来の観光コンテンツをつぶすことにもなる。5年前の死と,150年前の死になんの違いがあるのだろうか,自問せざるを得ない行動を僕はこれまでしてきている。

今回の調査ではさまざまな震災遺構を残すかどうかという問題があちこちで生じていることを確認できた。忘れてもらうことが癒やしなのか,経験していない人に話を聴いてもらって何か受け取ってもらいたい,悲惨さの中に何か価値を生みたいとする活動が住民達の癒やしとなるのか,そういうところの折り合いの問題が第一で,観光資源としての震災というのは第二第三の問題であろう。同時に,歴史というのは最強のコンテンツでもあるというのは,消費者としてよくわかる。国内最高の観光地である京都は同時に多くの血を吸ってきた土地でもあり,消えた命とその鎮魂の蓄積を生業としたり消費したりすることで生きる人たちがいる。ダークツーリズムは二重の意味で平和産業なのである。

自分の死を,まさに人権が剥奪されたそのあとに,どのように消費されるかについて,本人は異議申し立てすることができない。僕自身に関しては,自分の死を死んだ後にネットやメディアでコンテンツとして消費されるのはたまらなく嫌だという個人的な気持ちと,でも,「死んだらコンテンツ」というのは物書きという職業人としては安心感もある。自分がいなくなった後で,もう僕は反応しないから好きに使ってくれよ,何か価値があったらうれしいよというような部分はある。実際僕は,好んで存命の作者の小説よりも,死者の小説を読む習慣がある。小説家の生身の部分に影響されることなく作品を落ち着いて楽しむことができるからだ。自分の死についてもこの問題に対する確固たる回答を持ち合わせていない。ましてや,無残に奪われた何千の命の扱われ方に僕がいったい何をいう権利があるのだろうか。

よそ者としての生き方からよそ者から一歩踏み込むことのむずかしさを感じさせられた調査となった。

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