読書記録:猪木武徳(2001)『自由と秩序―競争社会の二つの顔』中央公論新社

一言で言えば,社会経済システムが成り立つための各種の緊張関係を描きながらその折衷や中庸を説く本とでも言えばいいのだろうか。マーケットとモラルの関係の書きぶりが,なんともややこしい。

市場経済は悪徳をはびこらせ、社会主義経済は人間を善良にする、と単純に信じ込む人はもはや少なくなった。しかし、市場経済そのものが、その土台として公共精神や一定のモラルを前提としていることを忘れてはならない。この公共精神やモラルの衰退が市場機構自体を破壊してしまうようなことがあるからだ。正直や信望といった見えない徳が、正義とともに市場の屋台骨となっているのである。

実際、市場と法やモラルは実に複雑な関係を保ってきた。たとえば、海上での掠奪や密輸といった無法行為は欧州の貿易と市場経済の発展のエネルギーとなった。十六~十八世紀の欧州における海賊と密輪業者の横行は驚くばかりである。奇襲と掠奪を繰り返す海賊の一部に対し、英国、オランダ、フランスなどの国王は 「私掠船」 として保護を与えていた。市場経済の発展・拡大と無法(lawlessness)は不即不離の関係にあったのである。

水夫は海の危険に生命を賭けたからこそ、自分たちの戦利品を当然の報酬だと信じて疑わなかったのだろう。無法の中で生き残るには才覚だけでなく覚悟がいる。あえてこの覚悟をした無法者のみがリスクに対する報酬を得た。古い因習を打ち破るエネルギーを発散させたことへの対価である。ただし、既存のルールの違反には罪と罰があるべきことは言うまでもない。責任を論ずることなく「罰はなし」ということでは、市場経済は萎縮するばかりだ。(pp.28-29)

最初の段落で公共精神やモラルの存在を説いたかと思えば,次の段落からは産業革命以前の,その例示で良いのと思わせる例を出しながら無法を説く。今の資本主義とそもそも市場経済のシステムが全然違うじゃないかと思うような,いやでもフランシス・ドレークがイギリスの歴史に与えた影響を思えば,奪った物勝ちの無法が後の歴史に与えた影響は大であるのか・・・いやいやいやという両極に振り回されながら,次第に一元的な評価の難しさに引き込まれていく。

その次の段落もよい。

モラルは政治の屋台骨でもある。しかしモラルの問題は、ルールを尊重する精神と人間の品位の問題として大切ではあっても、それを議論するだけで、日本にとって何が現在重く大きな問題かを忘れてしまっては、本末転倒であろう。モラル感覚を顕示し合うよりも、問題の軽重を判断する能力を研ぎ澄ますほうが、はるかに重要なのである。政治問題を過度に道徳的に解釈し(over-moralization)、私徳ばかりを云々して公知・公徳を見失ってしまうことだけは避けるべきであろう。(p.29)

モラルの中にもまた緊張関係がある。時に政治家は(とは本文は書いていないが),社会全体にとって重要でない問題に翻弄され,個人のモラルを問われる。清廉潔白であることの方が,社会を運営する能力の多寡よりも求められることがある。個人のモラルに訴える言説を政治家は時に多用する。国民の果たせぬ願望故か,それをまた自身も望み信条とするからか,野党にとっての数少ない攻撃手段だからか。すぐに思いつく近年の事例がいくつか思い当たるが,書くのは野暮なのでやめておく。

前段の市場の話と,政治の話を組み合わせるともう一段判断が難しくなる。政治はマーケットに影響を与える。経済に影響を与える政策において政治家に求められるモラルとは何か。私掠船の黒幕であったエリザベス女王1世の無法はどう評価されるべきか。国益を優先した政治家の公徳として評価せざるをえないのだろうか。政治家自身の政治とカネの問題だと,私徳と公徳の対立も明白だし,「些末な私徳の問題に拘泥するのはばかばかしい」と判断するに至るのも比較的容易なのだが,経済政策となると,政策に対する評価もモラルの評価も難度があがる。

2001年の本なので,今となってはトピックとして目新しくない論題も含まれるし,僕はあまり経済思想の本を読み慣れていないのでところどころで表れる大きな飛躍を読み飛ばすべきなのか立ち止まるべきなのか迷う部分もあるのだが,明示的に書いていないことを含めてあれこれ好きに読み,楽しんだ。

本書のメインはおそらく副題になっている「競争社会の二つの顔」という第4章の部分なのだろう。まあ気になった方には本書を読んでもらうとして,もう一箇所,僕自身の研究に関連するところで引用しておく。第4章で競争の自己目的化に警鐘を鳴らした後で,第6章で中間組織の役割について述べるところから。

労働組合、経営者団体、各種職能団体、消費者団体などが、それぞれのメンバーの利益を公共性になじむものへと転化しているという機能は市場経済において無視することはできない。経営者団体は環境問題について発言したり、ビジネス倫理について綱領を作成したりする。その意味でもNGOやNPOの役割も大きい。こうした中間組織が、民主主義と市場経済において果たす役割は今後きわめて重要となろう。(p.119,太字は引用者による)

労働組合や消費者団体,NGO,NPOのようになんらかの社会的弱者を代表する団体と,経営者団体をこういう並べ方をするのは珍しい書き方であろう。政治学が「利益団体」「圧力団体」という,ある種の価値観を内包した表現をしてきたのと対置すれば,あるいはNPOや社会的起業家が自身を営利企業とは異なる存在としてアピールしてきたことを思えば,この並置は新鮮に思える。この種の団体を単に利益を代表するものと解するだけでなく,利益が公共に受け入れられるようなレトリックを創造的に生み出していく存在として(とまでは明示的に書いていないが),あるいは利益の自己調整機能の側に目を向け,時に妥協したり交換取引したりしながら,落としどころを探っていく存在として着目している。例によって折衷的で,逆機能的に働く例示も出しながら,本書全体での評価は「無いよりはある方がまし」ぐらいのところではあるのだが。

折衷という結論に急ぐと物足りなさを感じる。条件分岐か組み合わせ方,あるいは達成する順序のようなもう一歩の踏み込みが読者には必要とされる。単に折衷だけを説いた本であれば,おそらく見向きもされなかったであろう。ヒントは書かれている。本書の論の振り回し方は,伊丹敬之(経営学者)がいうところの一時点では不均衡を作りながら動態的にバランスをとっていくような,そういう匂いがある。ある時点での無法が,別の時点での公徳となるか。悪名は無名に勝るということが往々にしてあるように。研究者が丹念なエビデンスを集めて培ってきた信頼を元に,キャリアのある段階から専門家としてエビデンスのない領域に踏み込んで社会的意思決定に身を投じていく時のように。